私がどもりと自覚したときに対策をした方法です

私は、子供の頃からどもりでした。当時は、習字教室があったのですが、姉と教室に行く時に先生に「よろしくお願いします。」というのを「よ、よ、よ」とか言えない。しかし、私は中高年のため、どもりという言葉の意味もわからなくて育ちました。私がどもりを自覚したのはパソコンインストラクターで授業をしていたときです。生徒さんに話す次の言葉が出てこないとか、「あああ」という感じで話してしまうのです。
生徒さんと交流がもてないということは、仕事が続けらないということですが、私はパソコンインストラクターを続けたかったため、自分で練習しました。さらに、同僚の話し方をまねてみました。
さらに、他のインストラクターの授業を録音して、家で聞いてどもらないように、ゆっくり話して相手につたえようと努力をしました。私のどもりはひどかったので、長い時間がかかりましたが、半年ぐらいでどもりは目立たなくなりましたね。

最低限子供の時にしつけをしておくこと

今、大人になり、社会に出て、人に使われ、人を使い、日本の社会を見つめ、個人の幸せを考えるとき、最低限、子供の時にしつけておかなればならないことがあります。
それは、まず、「挨拶ができること」です。
そんな簡単なことと思われるかもしれませんが、実に挨拶ができない人が多いこと、嘆かわしい限りです。
家族との挨拶から始まり、近所の人ととの挨拶、職場での挨拶、実にできない人が多いです。
次に必要なのは行儀です。
箸の上げ下げではありませんが、「靴をそろえて脱ぐ」、「箸をご飯に立てない」、「人と話をする時は相手を見て話をする」、などこれから大人になって生活していく上で最低限の行動です。これができていない人は他人から恥ずかしがられます。
それから、大切なことは、時間を含め「約束を守ること」です。
つまり、言葉の重みです。約束を守らない人は社会では信用されません。
以上の三点は、子供の時に身に付けないと後で身に付けようと思ってもなかなかできません。
「鉄は熱いうちに打て」の典型的なもので幼少期でなければ身に付かない大切なものです。
こういうしつけを疎かにして塾やら、学校で知識だけを身につけても社会に出てから、人間の基本的なことができていない人間は敬遠されるだけです。
人間の教育について何が大切かもう一度見つめ直しましょう。

どこまでもついてくるストーカー!

昔から、変な人に好かれる私。ある日、五反田で電車を降りたら、知らない男の人に腕をつかまれてこういわれました。「渋谷からずっとついてきました。
君は電車の中ですやすや寝ていました。そして、携帯をいじっていました。
そして、五反田でおりました」・・・って。もう本当に、全身に震えがくるくらい怖かったです。一目散に逃げたので、何もありませんでしたが、その後もついてきていないかずっと怯えていました。

何度後ろを振り返ったことか!別の日に、今度はコンビニを出たところで別の変な人に話しかけられました。

「あなたは、ペットボトルのお茶を買っていましたね。たいていそれを買う人は一人暮らしなんですよ。よって君は一人暮らしだとわかってしまうんですよ」

・・・て。

家がすぐ近くだったので、逃げ込むことは出来ましたが、近いがゆえに家がばれてしまいました。

それからというものの、家の近くに立っているときがしばしばありました。なんで、私は変な人に好かれるんだろう。まさに恐怖体験でした!

スピーチトレーニングで吃音は改善するのか

よく、情報商材や、民間の吃音矯正所などで
スピーチトレーニングや発声練習で吃音矯正をするものを見かけます。
では、スピーチトレーニングで吃音が改善するのかというと、
残念ながらそれだけでは改善は難しいようです。
ただ、スピーチトレーニングが全く無意味かというとそうではありません。
実際に流暢に話しやすくなる話し方というものは存在しています。
しかし、その前にというか並行して行わなくてはならないのはメンタルケアです。
自分自身の吃音と向き合い、それにとらわれずに生活できるよう行動を変えていくことが大切です。
ですから、肉体的な訓練に関するものは、そのメンタル的な問題を解決するための入り口であり、
改善や克服への本質的なものとは異なることを理解する必要があります。
特に症状の進んだ重度の吃音症の方は、
心理的な訓練プラス、直接的な発話の訓練が有効と言われています。
どちらかに偏ることなく、長い時間をかけて気長に訓練していく必要があるのです。

頭から離れない写真

幼いころからホラーや心霊現象などが恐くて仕方がなく、大人になった今でも変わりません。両親や姉がホラー映画やテレビが好きだったので、家では泣く泣く見せられることもしばしば…。一人暮らしを始めてからは恐い映像は一切受け付けないようにしていました。バラエティー番組でふと心霊現象の話が始まるとチャンネルをすぐさま変えるほどです。そうして過ごしていたのに、スマホでぼーっと色々なブログをみていたら、いつのまにか心霊写真のサイトに行ってしまっていたようで、いきなり首がありえない方向に曲がった笑顔の女性が写っている写真をみてしまい、それ以来お風呂もトイレも大変苦労しながら行っていました…。半年くらいはその映像が頭から離れず、夜中に玄関に行くと女性の顔が浮かび、まわりをバッバッと見渡しながら明るい部屋に逃げ込みます。シャワーを浴びていると背中がゾクッとする感じがしてまたまわりを見渡します。狭い場所や暗い場所に行くと必ず思い出してしまいました。最近やっと頭から消えかけていますが、まだ思い出してしまうと身体がゾクゾクします。それ以来、ネットを慎重に見て回るようにし、怪しいと思ったら絶対に開かないように気を付けています。将来、子どもがお化け屋敷に入りたいと言ったらどうしようと今から悩んでいます…。

読書の秋満喫中

秋という季節に関係なく、常に結構本は読んでいるんですけど、特に、ずっと楽しみに新刊が発売される度に書店に買いに行って読んでいた毛利志生子先生の長編「風の王国」が完結してしまいました。
こういった女性主人公が活躍する長編小説が大好きで、他には小野不由美先生の「十二国記」、雪乃紗衣先生の「彩雲国物語」を読んでいましたが、もう他に連載している小説はチェックはいっていないので、この後どうしようかと困っています。
自分の好みにあった小説を見つけるのって大変で、毎回新規開拓するときが一番苦労します。気に行った小説が連載となると、後は完結するまで買い続けるだけで楽なのですが……。
まずは、もう一回感動を再確認するためにも風の王国を1巻目から読み直します!すでにあらすじは覚えているので、気に行っているシーンを飛ばし読みするだけなんですけど、それでも初めから読み直したいって思える作品でした!
でも、1巻目が一番惹きつけられますね。いいシーンがいっぱい!まず1巻目で面白いって思わないと、次を読もうと思わないから、当然といえば当然なんですけどね。
推理小説だと、先が気になって寝る前に読むと、目がさえてしまうので、寝る前に読むのはほとんどライト小説。
気軽に読めるところが気に入っています♪

「どもり」に悩んでいます。

吃音で人生を狂わされたという友人にブログを書いてもらった。

私は今、大学生なのですが自分の「どもり」に悩んでいます。

友達や家族と話している時は、気持ちが先走って口が追いつかない状況に陥った時にのみ、どもりの症状がでることがありますが、基本的に問題はないようです。私自身、自分がどもっているという意識があるので、両親にも聞いてみましたが、家でしゃべっている時は大丈夫ということでした。

私のどもりは大抵の場合、たくさんの人の前でスピーチなどをしなくてはならない時に出ます。中学や高校で、壇上に立って作文を発表したり、大学の推薦入試の面接で志望動機や研究テーマについて説明する時など、強い緊張を感じると言葉がすんなりと出てこなくなってしまいます。一方で、小規模のグループ内発表などはとりわけ問題なく行えます。

これから、就職活動が始まるので数多くの面接を受けなくてはなりません。自分を最大限に売り込む場において、「どもり」はあまり良い印象を相手に与えないと思います。リラックスして望めばいいということは分かるのですが、これから社会で生きていく上でストレスや緊張の大元を取り除くことはできません。しかも、自分のどもりが理由で自信をもって人前で話すことができなくなっています。
「どもってしまうかも」という不安が気になってリラックスできないんです。

どもりを改善するのに効果的な方法があれば本当に知りたいです。

どもりを無くすには地域社会の改善が必要

どもりという病気は、洋の東西を問わず昔から存在する。人種や国籍にも関係なく発症する病である。男女比でいうと男性に多く見られる傾向が強い。基本的に原因は不明であり、特効薬なども存在しない。ただ、言葉によるコミュニケーションに障害があるという点を除けば、一般の健常者と何ら変わりはない。その点、恐るるに足りない病気であるとも言える。

しかしその一方で、患者本人の悩みや心の苦しみを思うと、極めて深刻な病であると言わざるを得ない。このように、どもりという病気の本質は、患者の心の苦しみを抜きにしては語れない。ゆえに、この苦しみを根本的に解決してあげることこそが、どもりの根本治療だということである。その弊害にネットゲームへの依存がある。

そしてその効果的な治療方法こそが、患者を取り巻く地域社会の改善なのである。

なぜ地域社会の改善が必要なのか?

そもそもどもりとは、コミュニケーション障害である。それ自体は患者に苦痛を与えるものではない。問題なのは、その障害を気にすることによる患者の悩みや苦しみ、痛みなどである。それらは、どもりによる二次障害とも言える。
それゆえ、この二次障害を解決してあげることにこそ、治療の重点を置くべきなのである。

具体的に言うと、周囲の誰もが患者をバカにしたりせず、笑いものにしたり邪魔者扱いしたりもせず、また、まるで腫れ物に触るかのような過剰な特別扱いなどもしないことである。常に自然体で患者と付き合うことができるコミュニテイがありさえすれば、二次障害は劇的に軽減すると考えられる。

もちろん、それは口で言うのは簡単だが、実現するには困難が伴う。

障害者も健常者も共生共栄できる社会の実現

健常者が障害者と自然体で付き合うことのできる社会は、確かに簡単には実現できないだろう。しかし、そんな社会の実現に向けて取り組んでいる欧米各国の幾つかの先行事例を鑑みると、決して現実離れした取り組みとは言えない。
その社会の実現は、日本においても不可能ではない。
地道な取り組みが長く続くことは避けられないだろうが、そうした努力はいつか必ず実を結ぶだろう。

結局、どもりというのは、言葉の障害を何とか解決しようと治療する以上に、この社会全体の改善をすることのほうが更に重要だということだ。

障害者も健常者も共生共栄できる社会の実現こそは、どもりに限らず全ての病気治療に有効な素晴らしい社会なのである。